| Black Beautyで紐解くアメリカンドラムの雄 Ludwigの歴史 |
| 2008/04/25 |

Ludwig Black Beauty 4x14 early 20's 8Lug Deluxe
ガンメタルブラックでコーティングされたブラス製のシェルに彫刻を施し、艶っぽい黒の肌合いに真鍮の金色の地金が浮き立った芸術品です。Scrollと呼ばれるこの渦巻き状の彫刻は1919年、最初期のブラックビューティーにあたる6ラグ仕様のInspirationモデルから登場し、1920年より8ラグ仕様の当Deluxeモデルに引き継がれ、Early20'sの顔として1925年まで製造されました。
今日に至っても多くのコレクター達から深く愛され続け、「仕様、コンディションを問わず」して必死に探し求められ続けている幻のスネアです。遥か戦前、80年以上も昔のドラムであるがため、現在目にすることは国内はおろか海外でも滅多にないモデルで、アメリカのヴィンテージドラムショップなどでもオーナーのプライヴェートコレクションになっている場合が多く、ほとんど売りに出されないのが実状です。所有していることが名誉であり最大の喜びであればこそ、多くのショップオーナーたちにとっても手元から放せない一台となってしまうのでしょう。そんなブラックビューティーの、奇跡とも言えるオリジナルコンデション!それが奏でる音の向こう側には何が見えることでしょうか。
1920s〜
日本で言うならば昭和初期、まだサーベルを下げた軍人が通りを歩いていた1920年代。まだ蓄音機と呼ばれていたレコードプレイヤーも一般には普及しておらず、人々はダンスホールなどに集まり音楽を楽しんでいた、そんな時代。
海の向こうアメリカでもロックなどまだ存在せず、ニューオリンズでジャズが産声を上げ、ディキシーランド・ジャズが次第に街を賑わせていった活気に満ちた時代。そんな時流の中で作られた、美しい彫刻で彩られた珠玉のスネアドラムです。活気づいた当時のアメリカのミュージックシーン、そんな息吹を今でも少しだけ感じさせてくれるこの孤高の逸品。「存在自体が奇跡である。」寡黙な艶肌を眺めていると本当にそんな気にさえなってきます。ベニー・グッドマンやカウント・ベーシーの登場よりも早く、当時のミュージックシーンの中にあったこのスネア。一体どんなミュージシャンたちと触れ合い、どんな音と共に時代をくぐり抜けて来たのでしょうか。もしブラックビューティーに語る口があったならば、多くの物語を聞くことができるでしょう。
アメリカンドラムの雄
長い歴史を誇るLudwig社が設立されたのは日本ではまだ明治に当たる1909年。ウィリアム・ラディックとその弟セオバルド・ラディックの兄弟によって設立されました。創始者ウイリアム・ラディックは1879年ドイツの生まれで、8歳の時に両親と共にイリノイ州シカゴに移住してきたと伝えられています。移住当時のラディック少年が住んでいた家の近くには軍のキャンプがあり、連日のようにマーチングバンドが行進していて、幼い日々の彼にとってそんな壮麗な楽器隊を見るのが何よりの楽しみであったようで、「あの夏の光景が私の生涯を決めた」と後に語っています。時は1887年、奇しくも日本では麹町の鹿鳴館で日本初の白熱電灯がついた年、そんな時代に少年時代を過ごした彼の目には、きらびやかな楽器を高らかに奏でるマーチングバンドがどれほど鮮烈なものに映ったのでしょうか。
やがて成長したウィリアム・ラディックは、移住後シカゴで生まれ、コンサートドラマーとして活躍していた弟セオバルドと共にラグタイムミュージックで使用するペダルを制作します。当時としては楽器にとってハードな音楽であったラグタイムのシーンにおいて、これが壊れにくいということで好評を博し、やがてウィリアムとセオバルドの兄弟はLudwig&Ludwigという名の小さなドラムショップを開きます。これがLudwig社の始まりです。そして1911年からドラムの制作を開始。次いで1913年には二人はペダル式のティンパニを開発し、こうしてLudwig社は当時一流と言われたWalbergやAuge、Leedyなどのドラムメーカーの仲間入りを果たして行くのです。
しかし、良いことは長くは続きませんでした。1918年、共にLudwig社を設立した弟セオバルドが、この年流行った悪性のインフルエンザのため29歳の若さでこの世を去ります。独り残されたウィリアム・ラディックはその後も一人で会社を支え、次々と新たなモデルを生み出して行きます。ブラックビューティーが誕生したのもこの頃でしょう。ジャズの台頭もありラディックドラムが全米を賑わせて行った時期でもありました。しかしながら20年代後半にはアメリカ最大の娯楽であった映画に変化が訪れます。トーキーの登場。それまでの無声映画にオーケストラピットでミュージシャンが演奏するというスタイルから、音声映画が主流になり、演奏シーンが激減し多くのミュージシャンが職を失っていきます。当然楽器も然り。そして1929年、大戦の元凶としても有名な世界恐慌が全米を襲います。こうした波にはさすがにLudwigも歯が立たず、多くの企業と同じく経営難に陥ったLudwig社はもうひとつの有名メーカーLeedyと共にG.C.CONN社に買収されて行きます。
CONN傘下でLudwigのドラムは作られ続けましたが、それはウィリアム・ラディックにとって居心地の良いものではありませんでした。工場も住み慣れたシカゴからインディアナ州へと移され、LudwigのドラムにLeedy式の生産工程が用いられるなど彼の自尊心に取って厳しい日々が続きます。結局CONN社の経営方針に同意することができなかったウィリアムはシカゴに戻って自分のドラムを再び作ることを決意。それがWFLの誕生です。
1937年、第二の故郷シカゴへと戻って僅かに残ったかつての仲間と新たなドラムカンパニーを設立したウィリアムでしたが、商標としてのLudwigの名前はCONN社に所有権があり、Ludwigの名を名乗ることは法的にも許されませんでした。そこで彼は自分の名、ウィリアム・フレデリック・ラディックの頭文字を取ってWFLドラム・カンパニーと命名します。やがてWFLにはSlingerlandやLeedyで仕事をしていた技術者達が集まり、最強の布陣で新たなスタートを切ります。
40年代に入ると第二次世界大戦が始まり、金属の使用に制限が加わることになります。このためそれまでどちらかというと金属中心に作られていたスネアが、主に木で生産されるようになります。今日に残っているWFL期のモデルにウッドの銘器が多いのもこうした時代背景が影響しているのでしょう。
一方、Ludwigを買収したCONNの方は、Ludwig&LudwigやLeedyのブランドネームで生産を続けていましたが、いまひとつ主流にはなれなかったようです。50年代に入りCONNはLeedyとLudwigのダブルネームブランドLeedy&Ludwigを立ち上げますが、これも不発に終わりCONNはLeedyとLudwigの両ブランドを手放すことを決意します。時既に一流ブランドとしてさらなる名声を得ていたウィリアム・ラディックはCONNよりLudwigの商標を買い戻すことに成功します。ようやくLudwigの名前がウィリアム・ラディックの元に戻り、再び彼はLudwigとしてドラムを作ることができるようになったのです。1955年のことです。(LeedyはSlingerlandが買収)
そして、その後のludwigは…ご存知の通りです。60年代にはビートルズ、70年代にはレッドツェッペリンやディープパープル、時代を代表するミュージシャンのステージではいつもLudwigのロゴが輝いていたはずです。1973年、Ludwigを一人で支えて来たウィリアム・ラディックは94歳でこの世を去りましたが、彼の亡き後もLudwigはアメリカンドラムの雄として今もシーンに君臨し続けてます。奇しくもレッドツェッペリンがマジソン・スクエアガーデンで伝説のライブを行った1973年、この世を去ったウイリアム・ラディック。幼き日、マーチングバンドに憧れ、それが生涯を決めた彼は、どんな思いで当時のミュージックシーンを眺め、そして旅立って行ったのでしょうか。
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